令和4年11月のKPCレポートは「自己株式取引」に伴う「源泉徴収」を買主が失念してしまい、取引から5年後に売主に請求したところ、支払いを拒絶されたため訴訟になってしまった事案に係る令和2年6月26日東京地裁判決を解説していきます。「源泉徴収」は非常に地味ですが、大きなトラブルにつながりやすいテーマです。
1.概要
甲社は東京都足立区に本社を置く一般乗用旅客自動車運送事業等を目的とする株式会社です。甲社は平成25年3月、株主であったA、B及びC(以下「売主3名」といいます)が所有する甲社株式合計4,040株を「自己株式」として買い取りました。甲社は1株当たり25,000円で買い取りを行い、買取総額は約1億円でした。
2.「自己株式取引」については「源泉徴収」が必要になることがある
まず「源泉徴収」とは、お金を支払う側が相手側に全額の支払いをせず、一部を所得税及び復興特別所得税(以下、総称して「所得税等」といいます)として天引きして税務署に直接納めることと簡単にイメージしてください。多くの人に最も馴染みがあるのは「給与所得の源泉徴収」でしょう。会社から給料をもらう時に所得税等が天引きされていると思いますが、あれが「源泉徴収」の典型です。そしてこの「源泉徴収」は給料に限らず、利子や配当、弁護士、税理士や非居住者への支払いなどの際にも必要となることがあるなど、実際には多岐にわたっています。
しかし株式や不動産の売買(譲渡)取引については、通常は「源泉徴収」をする必要はありません。従って買主は譲渡対価の全額をスパッと売主に払ってしまって、通常は問題ないのです。ところが「株式譲渡取引」の中でも「自己株式取引」は「源泉徴収」が必要になることがあるのです。その理由は非常に専門的になるので、細かい仕組みについてこれ以上知りたい人は個別に相談してください。
そして株式の売買(譲渡)取引には通常は「源泉徴収」が必要がないことから、この「自己株式取引」に伴う「源泉徴収」を失念してしまいトラブルになるケースが後をたたないのです。令和3年1月のKPCレポート「従業員持株会からの代物弁済に50億円を超える巨額の源泉徴収漏れが認定 ~代物弁済額の一部が「みなし配当」と認定、不納付加算税だけでも5億円以上~」では上場会社が、また令和4年3月のKPCレポート「株主から自己株式を取得した会社が源泉徴収漏れ ~個人株主に十分な説明をしなかったとして税理士にも約3,800万円の損害賠償命令~」では税理士のミスでそれぞれ「源泉徴収」を失念したため、大きなトラブルとなった事例を紹介しました。このように「自己株式取引」についての「源泉徴収」は、大企業や税理士でも非常によく見落とすところですので、実務では大変注意が必要なところということになります。
3.源泉徴収を失念し、取引から5年後に売主に請求
さて次に本件について時系列や数字を追いながら詳しく見て行きましょう。まず本件の買主である甲社は平成25年3月11日に「自己株式取引」であるにもかかわらず「源泉徴収」をせずに売主3名に対して譲渡対価である約1億円全額を支払ってしまいました。ところが取引から5年近くが経過したところで甲社は「源泉徴収」を失念していることに気がつき、平成30年1月25日,西新井税務署に対し源泉所得税等として1,979万9,232円、加算税(注:ペナルティのこと)として197万9,000円を支払いました(恐らく甲社に税務調査が入り、そこで指摘を受けたと考えるのが自然です)。そしてこの源泉所得税等1,979万9,232円については、本来は売主3名に渡す譲渡対価から「源泉徴収」しなければいけなかったものですから、平成30年4月25日,甲社は彼らに対し同額を同日から2週間以内に支払うよう催告をしました。しかしこれは売主3名から見たらたまったものではありません。5年前に終ったはずの話について、今頃になって3人合計で2,000万円近くもの大金を払えと言われても簡単には納得できないでしょう。そして売主3名が支払いを拒絶したため争いになったのです。
4.結論
次に結論について見て行きます。そもそも売主3名はこの源泉所得税等を甲社に払う法的な支払義務があるのでしょうか。これについては所得税法222条に「・・・これらの規定により所得税を徴収して納付すべき者がその徴収をしないでその所得税をその納付の期限後に納付した場合には,これらの者は,その徴収をしていなかった所得税の額に相当する金額を,その徴収をされるべき者に対して同条の規定による徴収の時以後若しくは当該納付をした時以後に支払うべき金額から控除し,又は当該徴収をされるべき者に対し当該所得税の額に相当する金額の支払を請求することができる・・・」とあることから、残念ながら売主3名には法的な支払義務があるということになります。しかしそうは言っても「源泉徴収」を失念したのは明らかに甲社のミスです。このため売主3名は「所得税及び復興特別所得税を負担しないという合意があった」とか「本件売買契約は,実質的には,原告代表者と被告らとの間の契約である」など、常識的にはやや無理筋と思えるような主張をして抵抗しました。しかし所得税法222条に明確に定められていることもあり、東京地裁は甲社の主張を全面的に認め売主3名に全額の支払いを命じたのです。
5.このまま問題が解決するのか
しかしこの東京地裁での判決がそのまま確定したとしても、問題が解決するかはまだわかりません。なぜならば甲社がミスをせず平成25年3月の時にきちんと「源泉徴収」をしていれば、売主3名は「源泉徴収」された1,979万9,232円を確定申告することで税務署に清算してもらえたからです。しかしながら既に売主3名の所得税の申告期限から5年以上が経過しているため、私は売主3名はこの1,979万9,232円を税務署に清算してもらえない可能性が極めて高いと考えます。そうすると売主3名から見ると甲社がミスをしたことによって、本来は清算してもらえるはずの源泉所得税等1,979万9,232円が清算してもらえず、結果的に自分達の負担になってしまったということにもなりかねません。そうすると今度は逆に売主3名が甲社に同額の損害賠償請求訴訟をすることも十分に考えられるでしょう。それ以外にも甲社に発生した加算税197万9,000円や弁護士費用、売主3名の弁護士費用、そして彼らがこの裁判で費やした無駄な時間と労力、精神的ストレスなどは、全て戻ってこないということになります。
このように「源泉徴収」を失念すると、多大な負担が発生することがあります。最近では「給与所得の源泉徴収」の失念が発端となり、総務大臣が更迭されるという事件まで発生しました。この元総務大臣は東京大学法学部を卒業して、大蔵省(現財務省)主計局に配属、米国ハーバード大学院に留学して、20代で税務署長になり、奥様は池田勇人元内閣総理大臣の孫という、これ以上ない輝かしい人生を歩んできた人間です。しかしこの「源泉徴収」のミスが原因で、あっさり失脚となりました。このように「源泉徴収」は地味ですが、ミスをすると大きなトラブルにつながる危険性を秘めていますから、甘く見ないで慎重な対応が必要です。